今夜君とダンスを

アイドルはいつだって天才だ

松田元太くんの演技によせて

 

 

初めて月9にゲスト出演することを聞いた時、ああ私は松田元太くんのその演技を見て、何を思うんだろうとわくわくした。

元太くんはやっぱり凄いなって、演技力さすがだって、そう思うんだろうなって思ってた。だって、私は元太くんのお芝居の力がとても好きだったから。力強くて、素直で、真っ直ぐで、そんなお芝居が大好きだったから。

 

でも元太くんがしていたのは「お芝居」なんていう言葉で表せるものではなかったのだと、放送を終えた今思う。

 

 

「どうして絵梨がこんな目に遭わなきゃいけねえんだよ…」

「誰の家族ですか。もしかして、佐々木の家族?」

「あんたの息子のせいで絵梨が死んだんだぞ!」

「どうしてくれんだよ。もう絵梨は帰ってこないんだぞ!!」

「絵梨を返せよ!!!」

 


群衆雪崩と報道された事故。自分の目の前で奥さんに覆いかぶさった人物が、ネットで特定された痴漢の犯人で、群衆雪崩の原因だと書き込まれている。何故よりにもよって自分の大切な奥さんがその犠牲にならなければいけなかったのか。現れたのは奥さんを殺した犯人の家族。頭を下げても大切な人は帰ってこない。すみませんでしたと床に額を擦り付けてもらっても、泣いて謝ってもらっても、大切な人は帰ってこない。帰ってこない。分かってる、自分が一番分かってる。いくらこんな風に怒鳴り散らして叫んだ所で、奥さんは帰ってこない。こんな怒りは何も生まない。自分が辛くなるだけだ。

でも、あの時の佐藤さんは泣き喚くしかなかったし、怒りをぶつける他なす術もなかったのだろうと思う。

 

 

壁を何度も叩く後ろ姿に、強い憤りを感じた。

虚ろに尋ねる目線に、この事態に憔悴し切っても尚、怒りと悲しみを携えた感情を見た。

感情の矛先を見つけた途端に生まれる憎しみに、事故当日から抱えてきた怒りの深さを知った。

やるせない悲しみと怒りを口に出して叫ぶことでしか放出されない行き場のない気持ちに、こんな事をしても無意味だと、この人自身が一番分かってるんだろうということが、伝わってきて涙が出た。

 

 

愛する誰かを失った気持ちの揺れ動きが、激しい感情が、どうにもならない思いが、手に取るように分かる。辛いよな。悲しいよな。苦しいよな。そんな佐藤さんの気持ちに指先が触れたように感じて、ふと、今見ているのは「松田元太という人によるお芝居」なのではなく「佐藤祐樹という人の人生の一場面」なのだと気付く。

 

 
出演が決まった時の元太くんの言葉を思い出す。

「ちゃんと役として生きて出演した」。

 
その通りだった。その通りだったよ元太くん。

そこにいたのは俳優松田元太じゃなくて、大切な奥さんを失くした遺族の佐藤祐樹さんだった。そんな風に思えるほど、辛くて苦しくて悲しくて、この人が救われますようにと願わずにはいられなかった。

 
佐々木さんは犯人ではなかった。と同時に、怒りと悲しみをぶつける矛先を佐藤さんは見失った。怒りをぶつける対象が居る事は辛い。憎しみは底なしで、憎んでも憎んでも感情は底を尽きないから、それでエネルギーが消費される。けれど、怒りをぶつける対象が居ない事は、もっと辛い。湧き出てくるような悲しみに蓋もできないまま、少しずつ深くなっていく悲しみのプールの中にただただ身を置いて、自分が溺れるのを待っているだけ。

だから、早く佐藤さんが悲しみの中から引き上げられますようにと、少しずつでも泳いで、水面から顔を出せますようにと願う。そんな風に余韻に浸ることのできる、とても良い時間だった。

 

放送される、見える部分だけが良いお芝居じゃないと思う。あの人どうなったんだろう、と見るものに未来を想像させる余白を与えることが出来るのも、良いお芝居の一つだ。佐藤さんは、ちゃんと前を向いて生きているだろうか。目の前に居ながらにして奥さんを守れなかったと、自分を責めては居ないだろうか。悲しみと怒りを誰にもぶつけられないまま、あの日から立ち止まったままではないだろうか。そんなことを思ってしまう。

元太くんの「佐藤祐樹さん」には、そんな風にこの先を考えたくなる余白がきちんとあった。

 


ただのお芝居ではなく「その人の人生を生きる」松田元太くんに、次の機会が巡ってきますように。

元太くんの演技が、きっと多くの人の心に残った1時間半だったよ。お疲れ様でした。